思えば歳を取ったもんだ

恥多き我が生涯について赤裸々に語ります。

読書禁止令

昨今、若者の読書離れが叫ばれて久しい。10代の前半から半ばまで、読書を止められた経験を持つ身としては贅沢な悩みにすら思える。

馬鹿げた話だが、あの女は私の止むことのない読書欲を押さえつけようと度々読書禁止令を出した。

しかし、いくら家で読むのを禁止したところで、学校においてまでそれを止める権利などあいつにはない。

自宅では素直に従うふりをして、内心アカンベーをしていた。私の素直じゃない性格は、明らかにあの女の抑圧によって形作られたものだ。

どれだけ止められようが、意地悪をされようがあの女は私の読書に対する旺盛な気持ちを止めることはできなかった。

この事は非常に示唆的である。人の心はどれだけ押さえつけようとしても、躍起になればなるほど反発するということだ。

テレビに関しては、どれだけ禁止されようが屁とも思わなかった。

しかし読書に関しては別だ。これは私にとっては最後の砦であった。本能がそれを察知していた。

だからこそ私は大いに反発したといえる。何より父が私のために本を買い与えてくれた。

あの女の読書禁止令は有名無実のもので骨抜きにされていた。ざまをみろだ。

私自身の話は、今回はこれで終わる。代わりに後半は、若い人たちに提言したい。

どうか皆さん、読書する習慣を身につけてほしいということだ。紙の本が敷居が高いと感じるなら、スマートフォンで読める小説サイトにでも目を通してほしい。

それでも物足りないと感じる人がいたとしたら、青空文庫を検索してほしい。

私は紙の本に重きを置いているので未だに目を通していないが、青空文庫では古今東西の文豪の小説などを無料で読めるということだ。

わざわざ図書館や本屋に行かなくても(本当は利用してほしいが)、多くの作家の作品が読めるのならこれを利用しない手はない。

はっきりと言えることは、読書というのは人一人の人生観・世界観を広げてくれるということだ。

たとえばビクトル・ユゴーの『レ=ミゼラブル』は、人生いかなる困難に追い込まれても絶望するなということを教えてくれる。

マーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』は、少年の反骨心と自由闊達に生きることの大切さに魅了される。

三国志』においては、乱世の生き方と乱世においても変わらない人としての誠実さを学んだ。

ここに取り上げた名作は、ほんのごく一部に過ぎない。それでもこういった名作に触れることで、人の心は耕かされ実り多きものとなる。

別に偉い人、立派な人にならなくても、人として生きる上で大きな指針となるはずだ。

正直、これを学ばずして生きていくのはあまりにもったいない。明らかに人生、損をしている。

とにかくどんな作家の作品でもいい。自分の心の栄養となるものを、一つでも多く見つけ出してほしい。

あなたの人生は間違いなく変わっていくはずだ。

※このブログは、毎月第1、第3土曜日に配信予定です。


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地獄からの生還:後編

私があの精神の地獄から抜け出すのは容易ではなかった。

翌年とにかく働かねばと、地元のスーパーマーケットにアルバイト入社した。しかし、働いているうちにつらくてつらくて辞めたくなった。

鮮魚部門に配属されたのだが、連日上司からの仕事が遅いとの叱責に、

(こっちは初心者なんだ、仕方ないだろう)

と内心毒づきつつも、気の弱い私は反論もできずにストレスを溜め続けた。

ある日とうとう耐えきれずに、上の人に辞意を表明した。何か、他にいい仕事があったわけではない。

ただ、この嫌な職場から逃げ去りたいその一心だった。結局慰留される形で退職は思い止まった。

その後、直属の上司が上とうまくいかなくなったのか、年末に辞めてしまった。

新しい上司は優しい方だったが、相変わらず仕事はつまらなかった。どうも鮮魚コーナーの仕事自体が合わなかったように思う。

勤務時間は決まっているのに、ひたすら溜まりゆく作業をこなさなければいけないつらさ!

それが更に私を蝕み、何度となく職場で鬱の発作で倒れさせる原因となった。

このままでは重大な事故を引き起こすのではないか。私は主治医に懇願し、何度となく休職した。

しかし一週間経って現場へ戻らなくてはいけないという状況になっても、私の心は晴れず鬱々とした気持ちは続いた。

結局、何もかも嫌になって年末に大阪まで家出をしたり、ODすなわち睡眠薬の大量摂取で二階の階段から転げ落ちてしまったりした。

その間、家内は卵巣癌に発症して卵巣・子宮を全摘手術をするなど、私よりつらい立場に立たされた。

しかし私には、家内を労う余裕さえなかった。

二階から転げ落ちた際、肋骨にヒビが入り一ヶ月近く自宅療養をした。その時だ、何がなんでも辞めてしまおう、と。

私という不良債権を抱えた上司は、彼自身もうつ病となり数ヶ月の休職を余儀なくされた。

最後の別れの時、自分もいずれ辞めますと宣言した際上司と一言、

「そうか」

と言ったきりだった。自分のことで精一杯でそれどころではなかったのだろう。

それからニヶ月後、私も辞めた。するとどうだろう。それまでの鬱屈とした日々が彩り豊かなものになった。

もちろん生活のためには食べていく術を見出さねばならない。

当分は登録制のアルバイトで食い繋ぎ、mixiで同じ小説を書く仲間と交流した。

同好の士を見出したことは、私の人生をどれだけ救ったか知れない。仮にまた鬱で悩んでも、話し相手となってくれ、何度も勇気づけられた。


今、鬱は幸いにも小康状態だ。今度就く介護職次第ではまたぶり返すかもしれない。

でも、自分はもう独りぼっちではない。その思いが、いつかやって来る苦悩に対しても私を救い出してくれるだろう。

そう信じて、このブログや小説執筆を続けていきたい。人生、正にこれからだ!

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地獄からの生還:前編

父が亡くなってからの六、七年は事実上精神の地獄へと堕ちていた。

いろいろなことがあった。同じ鬱仲間である女友達と些細なことで喧嘩になり、絶交を言い渡された。

当時勤めていた某国立大学での用務員の仕事も、派遣法の改正(私は改悪だと未だに、当時の民主党政権を憎んでやまない)で雇い止めとなった。

そして派遣切りとなる最後の月、すなわち2011年3月11日に起きた東日本大震災。あれが精神的に大ダメージとなった。

運悪くというか、職場のテレビで今まさに大津波で東北の家屋や走っている車やら呑み込まれるさまを見てしまったのだ。

今の日本でこんな大惨事が引き起こされるなんて。ショックで我が事のように感じた。

しかし今から思えば、あんなものはしょせん他人事に過ぎなかったのだ。

これから職を失い、どう生きていくべきかを考えなければいけない身としては自分の心配をしなければいけなかった。

取り敢えずは、定職に就くための職業訓練を受けよう。

というわけで、退職(事実上の雇い止めだが)して間もなくホームヘルパー二級(現在は、介護職員初任者研修)の講座を受けることにした。

家内から年々弱ってきている義母(2014年1月に他界)の介護も兼ねてと勧められてのことだった。

だが、当時の私には3K(きつい・汚い・給料が安い)と敬遠されていた介護業界に入る覚悟ができていなかった。

なにより東日本大震災の後に雇い止めに遭ったという不平不満が、私の精神をズタズタにしていた。

うつ病による希死念慮もあっただろうが、日々死にたい、死にたいという気持ちが頭を支配していた。

ヘルパーの講座をやっているビルの窓から飛び降りたら楽に死ねるのに。そんなことをしょっちゅう考えていた。

勉強をしていてもただただつらくなるだけで、まったく手につかなかった。そしてある日、遂に行動に移してしまった。

通院していた心療内科で処方してもらった睡眠薬、約四週間分を大量摂取し近所の公園の沼に飛び込んで人生の幕引きを図るつもりだった。

薬は飲み切った。後は沼に飛び込むだけ。だが、その直前で意識が途切れた。

気がつくと病院のベッドだった。傍らには、家内が涙目で見守っていた。死に損なったのだ。

恥ずかしかった。自殺を試みたことを、ではない。生き恥をさらしたことがやりきれなかった。あの頃の私は、病めるところまで病んでいた。

後年になって聞いたことだが、医者は入院させることを勧めていたらしい。が、家内はガンと拒否した。

入院していたら、私は完全にボロボロになっていただろう。今となっては、家内の判断に感謝するしかない。

しかし妻の心を知らずして、私はヘルパー講座を途中で辞めてしまった。

自分のことで精一杯で、他人様の面倒を見られる状態ではなかったのだ。

精神の地獄は未だ続いていた。

後編に続く。

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父の遺骨

昨日(2020年10月17日)に、久留米の菩提寺にて父の遺骨を引き取った。車で片道15時間、一昨日の夕方17時過ぎに出発して朝8時前に着いた。

なんというか、十三回忌も終わったことだしやっとかと一安心した。

思えば17年前にうつ病に罹患したことで、父とは絶縁状態となった。詳しいことはまた別の機会に譲るが、その間父には振り回されっ放しだった。

絶縁した際は、二度と会うつもりはなかったし死に目に会えないのも覚悟していた。

しかし人間というのはそう割り切れるものではない。それから5年後、福岡の伯父を通して父の訃報を知らされた時衝撃を受けた。

それから三日間寝込んでしまったくらいである。いかに私は、父と共依存症であったかを痛感した。

後年、当時の父の様子を見に行った叔母から、私と離れ離れになったことを嘆いていたと聞いた時後ろめたい思いにはなった。

とはいえ言い訳めくが、当時の私は自分のことで精一杯で父の面倒なんてとても見てはいられなかった。

下手をすれば親子ともども首をくくらねばならぬ、そんな状況だった。

私を生き地獄から救い出してくれたのは、今の家内と主治医である。

特に家内には、結婚前にうつ病にかかったポンコツな私を支えてもらい感謝の気持ちを表しても表しきれないほどだ。

普段は叱られたりすると逆ギレしてしまう私だが、本当は心底愛している。いつもありがとう。

いずれにせよ。

翌年の新盆の際、やはり車で福岡まで向かい伯父や叔母たちに再会した。面倒事を伯父に押しつけてしまったことを詫び、生前の父について語り合ったりした。

とはいえ、当時の私は父の死を実感できなかった。どこかで父は生きており、

「おい、信之(私の本名)」

などと話しかけてきてくれるのではと、期待をしていた。無論、死んだ人間が生き返るなんてことはあり得ない。

父の死に目に会わなかったという事実が、私の心を荒ませ何年も自暴自棄の状態が続いた。

この状況は、縁の深かった友人を離れさせ私自身の自殺未遂という状況まで生み出してしまった。うつ病も悪化するばかりだった。

父を亡くした39から46歳くらいまでの私は、事実上心の地獄へと落ち込んでいた。

あの頃の私はなにがしたかったのだろう。ただ死にたい、死にたいと思い詰めてばかりいた。

父の遺骨を目の当たりにした時もそうだった。七回忌の際、諸事情により遺骨を半分ばかり処分しなければいけない事態に直面した。

これが父の変わり果てた姿なのか。没後6年にして現実を直視させられた時、私はおおいにうろたえた。

それでも認めたくなかった私は、同情を示してくれた叔母たちに対して言わぬでもいい憎まれ口を叩いてしまった。

今では当時の不遜を恥じるばかりである。私はまだ、抜けるに抜けられぬ精神の地獄をさまよっていた。

※この稿、続く。

※都合により、配信が一日遅れてしまいました。

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父に捨てられた日

以下は、父が亡くなった後母方の叔母から聞いた話だ。ようやく重い口を開いたという感じであった。

父と母が離婚する前、二人の間ではいさかいがあった。私が誕生するまで、父はパチンコ屋で勤めていた。

ところが母の両親つまり祖父母がいい顔をしなかった。生まれてくる子のためにも、ヤクザな仕事から足を洗って定職に就いてくれと言われたらしい。

生前の父によると、天職と思い定めていたパチンコ屋稼業を泣く泣く辞める羽目になったとのこと。

そこまでは致し方ないエピソードとして受け流せる。が、その後が良くない。

父曰く、ヤクザな稼業に手を染めていたせいかなかなか次の仕事が決まらない。母はそんな父に愛想を尽かしたという。

ところが叔母の証言によると、この辺のニュアンスがだいぶ違う。私を出産後、母は水商売の世界に身を投じてまで私や父を養っていたそうだ。

これだけでも、当時の母が家庭を守るため孤軍奮闘していたことがわかる。

良くなかったのは父だ。いわばヒモ同然の立場になったのを恥じて、再就職へ向けて動き出すべきだった。

しかし母が働き始めたことで、こりゃ楽でいいわいと思ったのかどうか。

パチンコ屋時代に知り合った友人を毎晩家に招いては、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをしたらしい。

普通一家の大黒柱というべき存在が働かなくなったら、少しは自重して職探しに懸命になりそうなものだ。

実際後年、あの女と再婚した際次の仕事が決まらない間水商売の仕事をやらせて自分は好き勝手にやっていた父を目撃していたのであり得る話だと得心がいった。

いずれにしても。

母の堪忍袋は遂に切れた。父と激しく口喧嘩でやり合った後、単身で家出をしてしまった。

父は困った。唯一収入を稼いでくれる母がいなくなったことで、途方に暮れたのである。

八方手を尽くしたが、母の行方はわからない。逆上した父は、信じられない行動を取る。

新幹線の高架下に、まだ乳飲み子であった私を遺棄したのである。つまり捨て子にされたのだ。

この話を聞かされた時、数秒間私は電話口で絶句した。

が、すぐに、父が逆上すると何を仕出かすかわからない性格であるかを熟知していた私は、その現実を受け止めた。

真夜中その知らせを父から受けた祖母と叔母は、泣きながら私を拾い上げに向かった。

こんな男に私を任せられない。祖父母は、自分たちが引き取ることを本気で考えた。

しかし父はすぐに私を奪い返しに行った。いわば私は、母を連れ戻すための人質だった。

ようやく家に戻ってきた母はしかし、このまま一緒にいては父は堕落する一方だと判断した。それが次の恐るべき一言となった。

「私は、子どもなんか嫌いなんだから!」

母がどんな思いでこの一言を吐いたか、今思うと胸が痛くなる。そして二人は離婚し、父は長距離トラックの運転手となって私を連れて行ってしまった。

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なんて事だ!

我が藤山家は、福岡に本家がいる。十二年前父が他界した際、本家の伯父が遺骨を引き取って久留米の菩提寺に弔ってくれた。

その点では、伯父には感謝してもしきれず一周忌、三回忌、七回忌にはこちらも出向いて線香を手向けた。

で、今回の十三回忌を区切りとして永代供養をすることにした。本来なら久留米の菩提寺で供養するつもりだったし、先代の住職もそれで承知なさっていた。

ところがその点で、伯父に電話で相談したところ菩提寺に聞いてみるようにとメールがきた。

で、菩提寺に電話してみると住職が代替わりしたせいか、妙によそよそしい。

だけでなく、先方で永代供養をしてもらうつもりでいたこちらを人非人と言わんばかりに非難してくるのだ。

これには大いに弱った。こちらは良かれと思って、頼んだつもりだったのになんで非難されねばならないのか。

落ち着いてから考えるとだんだん腹が立ってきて、あんな寺にはもう父の遺骨は任せられないと思った。

幸い家内の両親が眠っている地元の菩提寺の住職が、

「そういうことでしたら、こちらでお引き取りしますよ」

と言ってくださり、話がまとまった、これで一安心かと思われた。ところがところがである。

遺骨を持ち帰るのに埋葬許可証なるものが必要だということが判明した。

この埋葬許可証なるもの、故人を埋葬する際に発行され万が一遺骨を移骨する際、この許可証が必要になる。

この旨を先方の住職に電話口で伝えたところ、

「あるにはあるかもしれないが、数が多くて把握できない」

というトンデモ発言。こちらの地元の住職さんは、仏さんや檀家さんの資料を一つ一つ丁寧にファイルしているというのになんといういい加減さ!

そんなんでよく、人を不人情だと非難できるなとよほど怒鳴りつけたくなった。

伯父にも確かめてみたが、埋葬許可証については十二年前のことなので覚えがないとこちらもあやふやな回答。

もう高齢でボケも入っているのかもしれないが、頼りないことこの上ない。

埋葬許可証自体、骨壷に納めていることが多いというので中身を確かめてほしいと懇願しても、こちらの言っていることが理解できないのかまるで動く気配なし。

仕方がないので、恐らく埋葬許可証に書かれていると思われる細かい情報を区役所などに問い合わせてみた。

ところがこちらも年数が経ち過ぎていて、父が亡くなった時の住所やら本籍やらわからずじまいだった。

十三回忌法要のため九州へ行く直前になって、ようやく本籍だけは判明した。それまでに費やした時間と労力に、今ではすっかり疲れ切っている。

今、このブログを打ち込んでいる間も心身両方の面で頭が痛いが私の失敗談を記しておきたかった。

それによって、この先読者の皆さんが身内の葬式・法事というのは気苦労が多いというのを覚悟してほしいからだ。

ほんと寿命が縮むわ。

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おばあちゃん

母方の祖母が亡くなった。九十三歳だった。ここ数年は養老院で過ごしていた。ご存じの通り、昨今のコロナ騒動で養老院も面会謝絶となっていた。

どれだけ寂しかったか。認知症もあったので、見捨てられたくらいのことは思ったかもしれない。

最後は食べることはおろか、水さえ飲むことも拒否したらしい。これにはさすがに養老院もあわてたようだ。

親族を代表して、長女である母が面会することになったが遂に間に合わなかった。最期は眠るように息を引き取ったという。

今月の一日とのことで、奇しくも三日が母の誕生日であった。同じようなことは、祖父が亡くなった時にも起きている。

たしか八年前だろうか。脳梗塞で倒れて以来、寝たきりであった祖父が逝ったのがその年の八月十二日。奇しくも十六日が私の誕生日である。

母子二代で、祖父母をそれぞれの誕生日の直前に亡くすというのは思えば奇妙な符号だ。

それはともかく。

祖母に関しては良い思い出だけがある。私が初めて社会人として働き始めた時、若い頃の苦労は買ってでもするんだよと教え諭してくれたものだ。

また進学の道が捨て切れずジャナ専に入学した時も、少なからず励ましの言葉を貰った。

母方の実家は静岡県三島市にあるのだが、祖母や一番下の叔母に電話するのは当時の私には癒しであり心の支えだった。

しかし、父は私が三島の実家に連絡するのを決して喜ばなかった。それどころか、

「あの家の連中と、お前はあくまでも他人だ」

とまで言い切る始末であった。なぜ父が、三島の実家と縁を切るような発言をしたのか。

そこには父にとっては触れられたくない、恥ずかしい過去の生き証人という一面を持ち合わせていたからだろう。

いずれ触れることになるが、この件に関しては上の叔母が後年教えてくれたことであり、祖母は一切関与していない。

私もあえて、祖母から詮索しなかったしその点で彼女は死ぬまで秘密を守っていったといえる。

その点では、既に草葉の陰にいる父は祖母に感謝こそすれ恨む筋合いは一ミリもないはずである。

祖母は話好きで愚痴もこぼすが、私にとっては心地好い人であった。若い頃の私にとって、何かと相談に乗ってくれる大事な一人だった。

私が今の家内と結婚した後も、寝たきりの祖父の面倒を見なければいけないにも関わらず快く訪問に応じてくれた。

介護で疲れ切っていた祖母の肩を揉んでやったりと、私もちょびっとだけおばあちゃん孝行をさせてもらった。

振り返ってみれば、祖母は私に与えてくれるだけで何の見返りも求めてこなかった。

母と晴れて親子の対面さえ果たしていれば、もう少し気を使わず接することができただろう。

その点で言えば、母との対面を遠慮していた私にとっては今回のことは祖父の時と同様、悔やんでも悔やみ切れない事態となってしまった。

やはり母に会わなければいけない。最後に、おばあちゃん長い間ありがとう。

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