思えば歳を取ったもんだ

恥多き我が生涯について赤裸々に語ります。

父上、ご無体な!

父は私にとってかけがえのない存在だった。あの人なしには、私は生きていけなかった。

父にとってもそれは同様だろう。いわば私たち父子は、共依存の関係だったわけだ。

そんな私でも、時々豹変する父の態度に辟易することがあった。たとえば例によって山ノ内町にいた頃の話。

漫画を描くのが楽しみの一つだった私は、夜遅くまで執筆に明け暮れていた。運の悪いことに、その現場を父に見つかってしまった。

「なに、くだらない物描いてるんだ!」

一切の言い訳も聞かず、目の前で会心の労作を破り捨てられてしまった。

悲しい、を通り越して当時の私にとって父の言葉は絶対だったので、その夜を境に私は筆を折らざるを得なかった。

もっとも人生とは皮肉なものだ。その後弟のお守りをする際、再び私は漫画を描くという作業に手を染めることになった。

元々デッサン力のない私と弟とでは、描く漫画の質も五十歩百歩であった。

だからであろう。漫画を描いている時だけは、私と弟は妙に馬が合った。

たとえそれが、弟の母親であるあの女を利することになったとしても、漫画を描いている時は、その時だけはあの女や弟に対する複雑な感情は抱かないですんだ。

十五の秋に、父とあの女は離婚した。原因は私の度重なる家出だった。その事で、父から発作的に責められもしたが私は自分の行動を悔いてはいない。

ただし、弟とは離ればなれになったので子守代わりの漫画を描く機会は永久に閉ざされた。私は自己表現の場を、漫画から小説へと移していった。

父は、小説を書くようになった私のことを得意げに吹聴するようになった。

漫画は駄目でも、小説はいいのか。そう学習した私は、高校入学後迷わず文芸部に入った。

ひょっとしたらあの頃の私は、小説そのものが好きというより小説を書く私を父に気に入ってもらいたかったかのかもしれない。

だから徹夜も厭わず、小説を書き続けたのだろう。あの頃の私は、明らかに何かに取り憑かれたかのようだった。

さすがにそんな私を見かねたのか、父はある時、

「小説を書いて売れる人間なんて、ほんの一握りだ。むしろ死んでから評価されるくらいの覚悟はしておいたほうがいい」

あまりに夢中になる私に水を差した。脳天を打ち砕かれる思いだった。

つまり私の努力は、父や私が生きている間は一ミリも理解されないと言われたようなものだ。

しかし私は、初めて父に反発した。自分の努力の結晶を評価するのは、父親が決めることではない。

他のまだ見ぬ読者に委ねるべきものだ。そう思い至った私は、プロの作家になろうと決意した。

あるいは本気かどうかを見極めるための、父なりのブラフだったのかもしれない。

今となっては確かめようもないが、近い将来を大学受験に目を向け始めた。プロの作家になる近道と信じて。

この稿、つづく。

 

※このブログは、毎月第1、第3土曜日に配信予定です。

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