思えば歳を取ったもんだ

恥多き我が生涯について赤裸々に語ります。

父の遺骨

昨日(2020年10月17日)に、久留米の菩提寺にて父の遺骨を引き取った。車で片道15時間、一昨日の夕方17時過ぎに出発して朝8時前に着いた。

なんというか、十三回忌も終わったことだしやっとかと一安心した。

思えば17年前にうつ病に罹患したことで、父とは絶縁状態となった。詳しいことはまた別の機会に譲るが、その間父には振り回されっ放しだった。

絶縁した際は、二度と会うつもりはなかったし死に目に会えないのも覚悟していた。

しかし人間というのはそう割り切れるものではない。それから5年後、福岡の伯父を通して父の訃報を知らされた時衝撃を受けた。

それから三日間寝込んでしまったくらいである。いかに私は、父と共依存症であったかを痛感した。

後年、当時の父の様子を見に行った叔母から、私と離れ離れになったことを嘆いていたと聞いた時後ろめたい思いにはなった。

とはいえ言い訳めくが、当時の私は自分のことで精一杯で父の面倒なんてとても見てはいられなかった。

下手をすれば親子ともども首をくくらねばならぬ、そんな状況だった。

私を生き地獄から救い出してくれたのは、今の家内と主治医である。

特に家内には、結婚前にうつ病にかかったポンコツな私を支えてもらい感謝の気持ちを表しても表しきれないほどだ。

普段は叱られたりすると逆ギレしてしまう私だが、本当は心底愛している。いつもありがとう。

いずれにせよ。

翌年の新盆の際、やはり車で福岡まで向かい伯父や叔母たちに再会した。面倒事を伯父に押しつけてしまったことを詫び、生前の父について語り合ったりした。

とはいえ、当時の私は父の死を実感できなかった。どこかで父は生きており、

「おい、信之(私の本名)」

などと話しかけてきてくれるのではと、期待をしていた。無論、死んだ人間が生き返るなんてことはあり得ない。

父の死に目に会わなかったという事実が、私の心を荒ませ何年も自暴自棄の状態が続いた。

この状況は、縁の深かった友人を離れさせ私自身の自殺未遂という状況まで生み出してしまった。うつ病も悪化するばかりだった。

父を亡くした39から46歳くらいまでの私は、事実上心の地獄へと落ち込んでいた。

あの頃の私はなにがしたかったのだろう。ただ死にたい、死にたいと思い詰めてばかりいた。

父の遺骨を目の当たりにした時もそうだった。七回忌の際、諸事情により遺骨を半分ばかり処分しなければいけない事態に直面した。

これが父の変わり果てた姿なのか。没後6年にして現実を直視させられた時、私はおおいにうろたえた。

それでも認めたくなかった私は、同情を示してくれた叔母たちに対して言わぬでもいい憎まれ口を叩いてしまった。

今では当時の不遜を恥じるばかりである。私はまだ、抜けるに抜けられぬ精神の地獄をさまよっていた。

※この稿、続く。

※都合により、配信が一日遅れてしまいました。

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