思えば歳を取ったもんだ

恥多き我が生涯について赤裸々に語ります。

おばあちゃん

母方の祖母が亡くなった。九十三歳だった。ここ数年は養老院で過ごしていた。ご存じの通り、昨今のコロナ騒動で養老院も面会謝絶となっていた。

どれだけ寂しかったか。認知症もあったので、見捨てられたくらいのことは思ったかもしれない。

最後は食べることはおろか、水さえ飲むことも拒否したらしい。これにはさすがに養老院もあわてたようだ。

親族を代表して、長女である母が面会することになったが遂に間に合わなかった。最期は眠るように息を引き取ったという。

今月の一日とのことで、奇しくも三日が母の誕生日であった。同じようなことは、祖父が亡くなった時にも起きている。

たしか八年前だろうか。脳梗塞で倒れて以来、寝たきりであった祖父が逝ったのがその年の八月十二日。奇しくも十六日が私の誕生日である。

母子二代で、祖父母をそれぞれの誕生日の直前に亡くすというのは思えば奇妙な符号だ。

それはともかく。

祖母に関しては良い思い出だけがある。私が初めて社会人として働き始めた時、若い頃の苦労は買ってでもするんだよと教え諭してくれたものだ。

また進学の道が捨て切れずジャナ専に入学した時も、少なからず励ましの言葉を貰った。

母方の実家は静岡県三島市にあるのだが、祖母や一番下の叔母に電話するのは当時の私には癒しであり心の支えだった。

しかし、父は私が三島の実家に連絡するのを決して喜ばなかった。それどころか、

「あの家の連中と、お前はあくまでも他人だ」

とまで言い切る始末であった。なぜ父が、三島の実家と縁を切るような発言をしたのか。

そこには父にとっては触れられたくない、恥ずかしい過去の生き証人という一面を持ち合わせていたからだろう。

いずれ触れることになるが、この件に関しては上の叔母が後年教えてくれたことであり、祖母は一切関与していない。

私もあえて、祖母から詮索しなかったしその点で彼女は死ぬまで秘密を守っていったといえる。

その点では、既に草葉の陰にいる父は祖母に感謝こそすれ恨む筋合いは一ミリもないはずである。

祖母は話好きで愚痴もこぼすが、私にとっては心地好い人であった。若い頃の私にとって、何かと相談に乗ってくれる大事な一人だった。

私が今の家内と結婚した後も、寝たきりの祖父の面倒を見なければいけないにも関わらず快く訪問に応じてくれた。

介護で疲れ切っていた祖母の肩を揉んでやったりと、私もちょびっとだけおばあちゃん孝行をさせてもらった。

振り返ってみれば、祖母は私に与えてくれるだけで何の見返りも求めてこなかった。

母と晴れて親子の対面さえ果たしていれば、もう少し気を使わず接することができただろう。

その点で言えば、母との対面を遠慮していた私にとっては今回のことは祖父の時と同様、悔やんでも悔やみ切れない事態となってしまった。

やはり母に会わなければいけない。最後に、おばあちゃん長い間ありがとう。

※このブログは、毎月第1、第3土曜日に配信予定です。

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