ジャナ専時代の頃:前編
私は1991年から94年の3年間、東京にあった日本ジャーナリスト専門学校に通っていた。通称ジャナ専という。
場所は、JR高田馬場駅から早稲田大学方面に歩いて20分ほど。父から早稲田入学を期待されていた身としては、皮肉な道のりであった。
歩いていくうちに、都電荒川線の線路が見えてくる。線路をまっすぐ行けば早稲田、左へ曲がればジャナ専に行き着く。
時々見栄を張って、早稲田方面へ歩いて行ってしまいたい衝動にも駆られたが。
正直なところ、当時ジャナ専といえば大学入試に失敗した奴が浪人生活を送りたくなくて仕方なく行く所。
いわば落ちこぼれの吹き溜まりみたいな学校だった。だから在校生がジャナ専と言う時は、どこか恥ずかしさを抱えながらであった。
もっとも私がジャナ専に入学したのは、大学以外で文章や小説を書く場が欲しかったからだ。
中にはジャナ専を腰掛けと考えて、1年くらいで中退して短大へ進んだ女の子がいたくらいだ。
私のようにマスコミ業界と言わずとも、文章を書くことで将来身を立てたいと思っている輩には薄甘い幻想は抱かせてくれた。
しかし、作文を毎週のように書かされ朱を入れられて糞味噌にけなされると、やる気も次第に失せてくるというもの。
それでも必要な単位だけは取るように努め、余裕が出てくると遊びの虫が疼いてきた。
せっかく東京まで通学しているのに、勉学だけにあくせくするのも馬鹿らしいという感じとなったのだ。
途中から遊びとバイトがメインとなり、ジャナ専は最低限の単位を取るために出席して、徹夜のバイトの翌日は教室の後ろで眠りこけていた。
一体何故このような体たらくとなってしまったのか。たぶん理想と現実のギャップに幻滅したからだろう。
一応マスコミ業界への就職をメインにした専門学校だが、ただ文章だけを書いていればいい。そういう所ではなかったからだ。
クラスメイトから始まり、電話口で親類の叔母さんをインタビューしてそれを元にインタビュー記事の真似事を書くことをさせられたりした。
後は校正といって、ゲラ刷りされたばかりの原稿の手直しを練習した。
なにしろ文章を書く以外はなにも知らないで育った男なので、これらの事が細かいというか煩雑に思えてならなかった。
そういえば校正の講師が、
「親孝行のために、校正の資格を取っておきなさい」
と皆に口が酸っぱくなるほど言っていた。もっとも私は、あの間違い探しみたいな作業が自分に合うとは思えず、耳に入っても右から左へ受け流していた。
そんな調子だから、貴重な3年間を遊びに費やし、2年生の時に入った宮沢賢治ゼミでも勉強熱心な他のゼミ生からは浮いていた。
ゼミの講師である故堤照実先生にとりとめのない身の上話を聞いてもらう、そんな自堕落な日々であった。
つづく
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