思えば歳を取ったもんだ

恥多き我が生涯について赤裸々に語ります。

母なし子として育てられ

「私は子供なんて嫌いなんだから!」

それが離婚の理由だと、父は私に繰り返し繰り返し吹き込んだ。なにしろ、まだ赤ん坊の時分の話だ。

母にも異論はあっただろうが、私としては引き取った父の言葉を信じるしかない。

もっとも小学3年生の頃までは、母親は死んだものだと教えられた。

周りに対する見栄もあろうが、一番の理由は継母への遠慮であろう。継母は父と結婚してから間もなく、男の子を一人もうけた。

私の腹違いの弟である。初めての子ということもあってか、継母は弟を溺愛した。

そして私に対する風当たりは強くなった。可愛げがないと言ってはぶたれ、蹴られ、それでも収まらない時は父に告げ口した。

私がいかに言うことを聞かない悪い子であると言いくるめた。父は怒りで歯止めが利かなくなり、革のベルトを鞭のように駆使して私を叩いたりした。

その時の恐怖や怒りは何者にも代え難い。私は発狂した父親よりも、父をそのように操るあの女を憎悪した。

そう継母と呼ぶのさえ忌まわしく感じる。あれは人に非ず、鬼婆だ。

さすがに人非人(にんぴにん)扱いはひどかろうと思うので、以後"あの女"と呼ぶことにする。

5才から15才まで、"あの女"と家族として過ごした10年間は忘れてしまいたいし出来れば封印したい。

しかし"あの女"との過去と対峙しなければ、私は死ぬまでこの胸糞の悪さから逃れられまい。

あの時のことを書き記すことは、私にとってはもはや義務にさえ近い。だから、崖の下へロープ一本で下るような不安を抱えながらも凝視していく。

"あの女"の名をみよ子と言った。名前などこの際どうでもいい。はっきりしていることは、あいつは私の母親という仮面を被っていたことだ。

冗談じゃない。私の母親は、生後半年くらいで私を棄てたと言われた母だけだ。誰がなんと言おうとも、その事実は動かない。

よく産みの親より育ての親と言うが、それは幸福な家庭生活を送れた人に限ってだ。

たとえば小林一茶のように、継母にいじめ抜かれたような人には大きなお世話だと言いたくなるだろう。

一茶が弱者にいたわりの目を向けた俳句を作ったのは、彼自身の心の優しさもあるだろう。

他には父親が一茶を庇うように可愛がったことが、心根の優しさを奪わなかったのに違いない。

小林一茶の話は置いといて。

私が未だに"あの女"を許せないのは、人としての尊厳を奪うような扱いを度々してきたためだ。

母親の愛情を知らずに育った男は、女性の扱い方がわからなくなるのだと言う。

だとしたら、その後の私の女性に対する臆病さは当時のトラウマが原因だった。としか言いようがない。

その点で私は、今の家内に出会うまで歪な女性との接し方をして損をしてきた。

この一点だけを取っても、私はあいつを終生許すつもりはない。向こうも許されようとは思ってないだろうが。

 

※このブログは、毎月第1、第3土曜日に配信予定です。

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