思えば歳を取ったもんだ

恥多き我が生涯について赤裸々に語ります。

ジャナ専時代の頃:後編

まだご存命かどうかは知らない。

ジャナ専こと日本ジャーナリスト専門学校のジャーナリスト総合科に進んで三年目、文章実習の科目で本岡類先生という現役の小説家に教えを乞うた。

当時ミステリーを書いていた新進作家で、その年に直木賞の候補になった方だ。

ご本人は泡沫候補と謙遜なさっていたが、それでも選考対象になっただけでも大したもの。

二年次に宮沢賢治ゼミの故堤照実先生の元に入り浸ったように、授業の後はよく二、三人で本岡先生の話を伺ったものだ。

この年はちょうど就職活動で忙しいはずの時期だった。

しかし、ジャナ専自体に神通力がないのか、私自身の力不足なのか面接を受けてもことごとく落ちていた。

すっかり嫌気がさした私は、現実から目を逸らすように本岡先生と堤先生の授業に没頭した。

特に本岡先生には、編集者から作家になった経歴の方だけにどうやったら作家になれるか、そんなことばかり聞いていたような気がする。

それに対する本岡先生の回答はただ一つ。作家になるには近道をするべきではない。

むしろスケールの大きい作家になるには、マスコミ関係の仕事に就くべきではないと諭された。

この言葉が当時の私にどれだけ響いたかはわからない。ただ、マスコミ以外の就職選択もありかと思えてきた。

今になってみると、その一言が未だに私を支えていると言っても過言ではない。

とはいえ、あの頃の私はやはりマスコミ関係の専門学校に在籍しているからには、就職先もそちらへと固定概念があった。

固定概念といえば、学校の求人欄に刑務官募集というのを見た時は驚いた。全然マスコミと関係ないじゃんと一顧だにしなかった。

しかしよくよく考えてみると、刑務所というのは堕ちるところまで堕ちた人間の吹き溜まりである。

そこでじっくりと人間観察をしていれば、本岡先生が言うところのスケールの大きい小説が書けたかもしれない。

もっとも気の弱い私のことだから、受刑者にナメられることも十分あり得る。小説どころか職を失う可能性もあっただろう。

この後、埼玉県内の製本会社にギリギリで受かったにも関わらず、父の横槍で断念したことを考えれば刑務官の道も可能性は低かったと思う。

就職が駄目ならと、その前後に短編小説賞に応募して起死回生を図ったが事実上悪あがきだった。

将来へのぼんやりとした不安が、私を右往左往させたのだろう。人間万事塞翁が馬という故事を、よくよく噛み締めておくべきといえた。

結局就職が決まらないまま卒業を迎え、宙ぶらりんとなった私は周りに五年以内に作家になると根拠のない公言をするほど焦っていた。

今でも作家にはなれていない。しかし、あの当時と比べたら客観的に過去を見ることができている。

とにかく急ぐべからずと、自分に言い聞かせている毎日だ。

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ジャナ専時代の頃:前編

私は1991年から94年の3年間、東京にあった日本ジャーナリスト専門学校に通っていた。通称ジャナ専という。

場所は、JR高田馬場駅から早稲田大学方面に歩いて20分ほど。父から早稲田入学を期待されていた身としては、皮肉な道のりであった。

歩いていくうちに、都電荒川線の線路が見えてくる。線路をまっすぐ行けば早稲田、左へ曲がればジャナ専に行き着く。

時々見栄を張って、早稲田方面へ歩いて行ってしまいたい衝動にも駆られたが。

正直なところ、当時ジャナ専といえば大学入試に失敗した奴が浪人生活を送りたくなくて仕方なく行く所。

いわば落ちこぼれの吹き溜まりみたいな学校だった。だから在校生がジャナ専と言う時は、どこか恥ずかしさを抱えながらであった。

もっとも私がジャナ専に入学したのは、大学以外で文章や小説を書く場が欲しかったからだ。

中にはジャナ専を腰掛けと考えて、1年くらいで中退して短大へ進んだ女の子がいたくらいだ。

私のようにマスコミ業界と言わずとも、文章を書くことで将来身を立てたいと思っている輩には薄甘い幻想は抱かせてくれた。

しかし、作文を毎週のように書かされ朱を入れられて糞味噌にけなされると、やる気も次第に失せてくるというもの。

それでも必要な単位だけは取るように努め、余裕が出てくると遊びの虫が疼いてきた。

せっかく東京まで通学しているのに、勉学だけにあくせくするのも馬鹿らしいという感じとなったのだ。

途中から遊びとバイトがメインとなり、ジャナ専は最低限の単位を取るために出席して、徹夜のバイトの翌日は教室の後ろで眠りこけていた。

一体何故このような体たらくとなってしまったのか。たぶん理想と現実のギャップに幻滅したからだろう。

一応マスコミ業界への就職をメインにした専門学校だが、ただ文章だけを書いていればいい。そういう所ではなかったからだ。

クラスメイトから始まり、電話口で親類の叔母さんをインタビューしてそれを元にインタビュー記事の真似事を書くことをさせられたりした。

後は校正といって、ゲラ刷りされたばかりの原稿の手直しを練習した。

なにしろ文章を書く以外はなにも知らないで育った男なので、これらの事が細かいというか煩雑に思えてならなかった。

そういえば校正の講師が、

「親孝行のために、校正の資格を取っておきなさい」

と皆に口が酸っぱくなるほど言っていた。もっとも私は、あの間違い探しみたいな作業が自分に合うとは思えず、耳に入っても右から左へ受け流していた。

そんな調子だから、貴重な3年間を遊びに費やし、2年生の時に入った宮沢賢治ゼミでも勉強熱心な他のゼミ生からは浮いていた。

ゼミの講師である故堤照実先生にとりとめのない身の上話を聞いてもらう、そんな自堕落な日々であった。

つづく

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確執

ただ、私は大学受験を甘く見ていた。ある先生から、

「藤山くん、大学入試は高校入試に毛が生えた程度のものとは違うぞ」

忠告されていたにも関わらず、ギリギリまで部活動を続けていた。今にして思えば愚かであった。

結局、国立も含めて何校か受けたが全滅だった。高校卒業後浪人生活に入ったが、半年と持たずに挫折。地元の製麺工場に中途入社した。

鬱屈の日々だった。毎晩酒を飲んでは荒れての生活を送っていた。本当は売れっ子作家になるための近道として、大学を目指していたのに。

それがしがない工場勤務に身を落としたと悲観的になっていた。

それでも小説を書きたいという思いを捨て切れなかった。

そんな時、たまたま『ムー』というオカルト雑誌で『エンブリヨ』という同人誌で同人を募集しているというのが目に止まった。

ホラー専門誌ということだが、なんでも構わなかった。とにかく小説が書きたかった。

結局この『エンブリヨ』には、二年足らずの社会人生活と三年間の専門学校生活で投稿をしていた気がする。

もっとも専門学校時代の三年間は、あまり『エンブリヨ』に関わることが少なくなっていた。

当時埼玉県の小川町という所に住んでいたのだが(広い意味でだが)、駅から東武東上線の始発に乗り、池袋駅から高田馬場駅を山手線に乗って歩いて二十分くらいの専門学校に通っていた。

片道約二時間というのを、三年間繰り返した。もっとも単位に余裕が出てくると、遊ぶ金欲しさにバイトを掛け持ちした。

それはいい。いずれにしろ、東京で遊ぶことの楽しさに取り憑かれた私は、小説を書くことをほぼ忘れていた。

他にも理由はあったが、作家を目指すという意味では専門学校時代の私は完全にドロップアウトした。

とはいえ、女遊びは問題外にしても図書館でクラシックのCDやレコードを聴きまくり、読書をしまくりその合間にバイトをしたということではそれなりに意味のある三年間だった。

ところが父はそうは受け取らなかった。三年間通った末、就職も決めなかった私の歳月を無価値と断罪した。

おまけに卒業を前に決まった就職先までケチをつけられ、後日ハガキで断るという嫌な思いまでさせられた。

十五の時に父と二人暮らしをするようになり、それなりに良好かに見えた親子関係に亀裂が入り始めた。

それは埼玉から静岡に引っ越すという唐突な提案から決定的となった。

私をなにか所有物のように考えている父に嫌気が差して、静岡へ引っ越すと精神的な距離は遠くなった。

それでも望まない就職先で働き、夜は酒を飲んでいる間は鬱屈は免れた。

やがて自動車の免許を取ると外で遊び歩く機会が増えていった。

それでも帰ってくる分には、まだ私と父の絆は切れていなかったといえる。

やがて二人の関係が完全に決裂することになるが、それはまた別の機会に。

 

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父上、ご無体な!

父は私にとってかけがえのない存在だった。あの人なしには、私は生きていけなかった。

父にとってもそれは同様だろう。いわば私たち父子は、共依存の関係だったわけだ。

そんな私でも、時々豹変する父の態度に辟易することがあった。たとえば例によって山ノ内町にいた頃の話。

漫画を描くのが楽しみの一つだった私は、夜遅くまで執筆に明け暮れていた。運の悪いことに、その現場を父に見つかってしまった。

「なに、くだらない物描いてるんだ!」

一切の言い訳も聞かず、目の前で会心の労作を破り捨てられてしまった。

悲しい、を通り越して当時の私にとって父の言葉は絶対だったので、その夜を境に私は筆を折らざるを得なかった。

もっとも人生とは皮肉なものだ。その後弟のお守りをする際、再び私は漫画を描くという作業に手を染めることになった。

元々デッサン力のない私と弟とでは、描く漫画の質も五十歩百歩であった。

だからであろう。漫画を描いている時だけは、私と弟は妙に馬が合った。

たとえそれが、弟の母親であるあの女を利することになったとしても、漫画を描いている時は、その時だけはあの女や弟に対する複雑な感情は抱かないですんだ。

十五の秋に、父とあの女は離婚した。原因は私の度重なる家出だった。その事で、父から発作的に責められもしたが私は自分の行動を悔いてはいない。

ただし、弟とは離ればなれになったので子守代わりの漫画を描く機会は永久に閉ざされた。私は自己表現の場を、漫画から小説へと移していった。

父は、小説を書くようになった私のことを得意げに吹聴するようになった。

漫画は駄目でも、小説はいいのか。そう学習した私は、高校入学後迷わず文芸部に入った。

ひょっとしたらあの頃の私は、小説そのものが好きというより小説を書く私を父に気に入ってもらいたかったかのかもしれない。

だから徹夜も厭わず、小説を書き続けたのだろう。あの頃の私は、明らかに何かに取り憑かれたかのようだった。

さすがにそんな私を見かねたのか、父はある時、

「小説を書いて売れる人間なんて、ほんの一握りだ。むしろ死んでから評価されるくらいの覚悟はしておいたほうがいい」

あまりに夢中になる私に水を差した。脳天を打ち砕かれる思いだった。

つまり私の努力は、父や私が生きている間は一ミリも理解されないと言われたようなものだ。

しかし私は、初めて父に反発した。自分の努力の結晶を評価するのは、父親が決めることではない。

他のまだ見ぬ読者に委ねるべきものだ。そう思い至った私は、プロの作家になろうと決意した。

あるいは本気かどうかを見極めるための、父なりのブラフだったのかもしれない。

今となっては確かめようもないが、近い将来を大学受験に目を向け始めた。プロの作家になる近道と信じて。

この稿、つづく。

 

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かけがえのない友だち

山ノ内町の話を続ける。当時住んでいた団地(といっても、たかだか三階建てだが)に親友と呼べる子が一人いた。

名前は確か、小島みのると言い私より一つ下だったと思う。団地の管理人の息子さんなのだが、妙に気が合った。

その頃父は経済的に余裕があったのか、住んでいたニ階のもう片方の部屋に空きができたのでそこも借りた。

父にしてみれば、身近に男の隠れ家を作ったようなものかもしれない。


その隠れ家を、父が運転代行で忙しい夜の間私とみのる君の遊び場として利用させてもらった。

山ノ内町は信州北部に位置することもあり、冬は豪雪地帯だった。ましてや夜ともなれば、室内でなければ遊べない。

思えばあの女は、あの頃まだ年端もいかない赤ん坊の世話を見つつ、夜は芸者仕事をしていた。精神的に不安定だったのだろう。

たぶん、仕事に出掛けるまでのそんな長くはない時間だったのかもしれない。

別室でみのる君と拙い漫画を描いたり、当時テレビでやっていた「ルパン三世」や「西遊記」を真似たごっこ遊びをしていた。

その中で記念碑的なのは、拙いながら私が「西遊記」のパロディ漫画を描いてみのる君を楽しませたことだ。

それは途中で三蔵法師が病で亡くなってしまうという、子供ながら(というより、子供だからこそと言える)残酷なシシュエーションだった。

結局、孫悟空ら三人は三蔵法師を弔った後筋斗雲で天竺まで行ってしまうという
長旅の苦労や味わいを無視した形のものだった。

子供心に恐らく、テレビの中で旅をする三蔵法師一行が各地で妖怪と闘いながら天竺を目指す意義が理解できなかったのかもしれない。

だから、三蔵法師を途中で殺してでも最速で天竺に行くなんてものを描いたのだろう。

子供というのは単純なもので、テレビもこういう具合にいけばいいのにと話し合ったものだ。

彼と遊ぶのは、大体一日一、二時間程度だったが至福のひと時だった。

帰り際、三階の自宅へ通じる階段の途中で、

「明日も遊ぼう、なっ、なっ!」

と言ってくれるのが嬉しかった。

彼とは無二の親友と信じていたし、みのる君との関係がその後も続いていれば、私も家庭の憂さも晴らせたし人間関係というものを良好に築けただろう。

しかし小学四年生の初めに、静岡の富士宮市に引っ越すことが決まった。父が職代えをするためだ。

正に青天の霹靂で、私には成す術がなかった。別れの日、彼の家を父に連れられて訪ねたが何も言えなかった。

ただ二人とも泣くまいとするように、涙をこらえていた気がする。

あれ以来、みのる君とは音信不通となった。結婚後、妻の両親が長野県出身ということもあり、度々信州に親戚回りも兼ねて旅行に訪れている。

山ノ内町にも度々温泉旅行に出掛けたが、小島みのる君の消息はわからず仕舞いだ。

もう一度、会ってみたいものだが。

 

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帰ってこなけりゃいい

前回も記したように、父の思いつきのような行動で引っ越しを強いられた少年時代だった。

当然周りになかなか馴染めず、仲良くなったと思ったらまた転校と非常に笑えない状況が続いていた。

特に長野県北部の温泉街、山ノ内町に住んでいた時はあの女が芸者をして家計を支えていた。

父はその稼ぎを当てにして、その上で今の運転代行業に近い仕事を始めていた。

元々、車の運転が好きでたまらないという人だったのである種天職だと言えた。

しかし人を雇う余裕まではないので、電話番は私がやる羽目となった。

とはいえまだ小学校の低学年である。電話の応対といっても満足にできないことが多く、そのことで父からの叱責を受けるのがつらかった。

世間知らずの子供なりに、精一杯工夫はしてみた。なるべく優しい口調で応対するとか試行錯誤した。

すると今度はあの女に、

「お前のとこの電話番は、小さい女の子でも雇っているのかと言われた」

と、言わんでもいい嫌味を言われて自尊心を傷つけられた。本当に腹が立つ。


そもそも父親とあの女(両親なんて、口が裂けても使いたくない)の仕事の尻拭いを、なぜ私がやらねばいけないのか疑問だった。

当然私の扱いを巡って、父とあの女とのいさかいが絶えず気に入らなくなると、まだ赤子の弟を連れて実家へ帰ってしまった。

私はその時だけは、すべてから解放されたような至福の時を過ごした。

父のほうは必死だ。あの女を当てにした代行業で食えなくなれば死活問題に関わる。朝から晩まで執拗に電話をかけては、あの女に戻ってくるように促す。

そういう時の父を見るのだけは、息子ながら嫌だったがそれ以外は幸せであった。

私のために漫画を買ってくれたり、精一杯優しくしてくれた。それだけで充分だった。

父と私の二人きりで過ごしたほうが、どれだけ満ち足りた生活を送れたことか。

しかし現実は幼い私の思い通りにはいかない。後々あの女は勝ち誇ったように、

「お前の父親はあたしの実家まで迎えに来て、『頼むから帰ってきてくれ』と土下座してきたから帰ってきてやったんだ」

父親の尊厳を傷つけるようなことを、平気で小気味良さげに言ってきたものだ。

要は血の繋がった息子よりも、夫婦としての絆を選んだのだと自慢したかったのだろう。

馬鹿な女だ。そんな言動が父だけでなく、私さえも傷つけることを承知のうえで発言するのだから。

あの女に対する憎しみが年を追う毎に増していき、この世からいなくなってしまえ!と念じるほど溝が深くなっていくことも知らずに。

今でも時々、あの女が嫌味たっぷりな調子で帰ってくる夢を見る。私は未だにあの女に、精神を支配されているということか。

いつの日か、夢にも出てこなくなれば私はようやくこの軛(くびき)から逃れられるのだろう。信じるしかない。

 

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読書だけが救いだった

テレビでアニメやドリフのコントはよく観ていた。それでも小学校もだいぶ高学年になってくると、それすら観るのが禁じられてきた。

テレビの話題で友達と会話が成り立たないと寂しいと感じるものだ。

もっとも我が家の場合、転校に次ぐ転校の繰り返しで友達をつくるのに苦労した。

どうせ苦労してつくっても、転校したら一からやり直しなので自分から友達をつくる努力は放棄した。

当然人見知りとなり、私は読書に救いを見出していた。どこの学校に転校しても、図書室は確実にある。

私は図書室に入り浸り、さまざまな本を読んだ。主に伝記や学研の学習漫画に耽溺した。

漫画をくだらないものと切り捨てる父ですら、学研のひみつシリーズや日本の歴史シリーズだけは黙認してくれた。

寡兵でもって、鎌倉幕府の大軍を散々に苦しめた楠木正成を知ったのもそうだった。

織田信長はもちろん、その前における武田信玄上杉謙信の激闘を知ったのも、学研の日本の歴史シリーズだ。

当時は歴史の流れというより、個人の活躍に興味があったので自然と伝記へと興味が移った。

ベートーヴェンが難聴にもめげず作曲を続けた話。アムンゼンが犬橇(いぬぞり)や当時最新鋭だった飛行船を使って、二度も南極点を制覇したエピソードなど。

伝記特に小学生の頃は、欧米の偉人伝に心を躍らせた。

中学生になると少し大人びて、斎藤道三九鬼嘉隆など歴史の教科書には出ても名前の羅列だけで終わってしまうような人物に興味を持つようになった。

本当は楠木正成の伝記を読みたかったが、何故ないのか当時は謎だった。

やがて興味は世界の文学のダイジェスト版へと食指が動いた。

『レ=ミゼラブル』、『三国志』、『モンテ=クリスト伯』が特に心に響いた。

その中でも、ビクトル・ユゴーの『レ=ミゼラブル』は、主人公ジャン・ヴァル・ジャンやその養女となったコゼットの前半生が胸に刺さった。

どんなにつらいことがあっても、必ず誰かによって救い上げられ幸せな人生を切り開ける。

私が周りの大人に不信感を抱きながら、それでも人を信じてみようという気持ちを捨てなかったのはユゴーのあの名作に負うところが大きい。

後に高校時代に全訳版の全五巻を読み終えた時、ダイジェスト版とは違った感動を得た。

いつか自分もこんな感動的な小説を書けたらいいのだが。当時文芸部に所属していた私は、思いつつも自分には無理かもとあきらめてもいた。

"あの女"とは、中学三年生の秋に父と離婚してから縁が切れた。不遜にも"あの女"は、読書という私の唯一の楽しみさえも奪おうと画策した。

もしもその企みが成功していたら、私は今頃作家を目指すどころか読書する楽しみさえも失っていたかもしれない。

未遂に終わったことを、心底喜ぶばかりである。人が人の心を縛りつけようとする不遜さよ。


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